<ゲーム雑記>ノベルゲームの誕生の歴史や意識の変化

<ゲーム雑記>ノベルゲームの誕生の歴史や意識の変化

今回はいつもと少し違ったことを考えてみようかなと。いや、似たようなことは以前にも少しずつ書いていたんでしょうけどね。でもこれまであまり意識していなかった、というかあまり関心がなかった側面につきあえて意識してみようかなと。関心がない分野は、人は見えていることも見えなかったりするものです。そのため忘れていたり抜けたりしている部分もあるかもしれませんが、思い出せる範囲内で書いてみました。

例えばSLGって何と聞かれた場合、戦略SLGしか知らない人が説明するのと経営SLGしか知らない人が説明するのとでは、間違いなく全く違う説明になってしまうでしょう。詳しい人なら漠然とした共通する大枠を説明しつつ、その後にストラテジー・ミニスケープ・経営・育成などの細かいジャンルの種類や傾向を説明できるのでしょうけれどね。SLGの場合は早くから上手く分離ができていたし、その時々で流行り廃りはあるものの、それなりにそれぞれが残っているという感じがします。まぁ住み分けが上手く機能しているんですよね。
その点ADVは住み分けや分類が不十分で、また何かしらの方向に一気に流れていってしまうことが多いように思います。もっともその一番の大きな変化に関しては、個々のADV間におけるゲームジャンルの変遷というよりも、むしろ遊び手であるプレイヤーの意識の変化の方から見ていった方が分かりやすいようにも思います。
どういうことかと言いますと、ここ10年程の間にADVを始めた人っていうのは、その多くがADVは絵と音を楽しみながらたまにある選択肢を選びつつ、テキストを読んでストーリーを追うものという認識ではないかと思います。そういうストーリーを追いかける系統の作品は一般にノベルゲームと言われるのですが、80年代から続く元々のADVは主人公≒プレイヤーであり、プレイヤーが主人公に行動をさせ、コンピューターがそれに対応した反応を行い、それを繰り返していくゲームだったわけです。つまりADVとノベルは本来は質的に異なるものであり、当初は別ジャンルとして区別していた人もいたくらいなのです。
とは言うものの、どちらも絵や音やテキストを中心に楽しむ点では違いがなく、両者の区別が困難な場合も多々あります。そんな場合にまであえて区別する必要性があるのかには疑問が生じますし、広い意味でのADV扱いで良いのではないかという考えが普及し定着していくわけです。今でも選択肢のないのはゲームと呼べるのかという議論があり、そうなったらもうゲームではないだろという意見もあるものの、細かいことにこだわらず絵と音とテキストを楽しむ作品ならゲーム扱いで良いよねって意見の方が多数を占めると思います。そういう風にADVの定義が次第に広がっていったわけですね。
そうして定義を広げることでノベルを吸収していったADVなのですが、日本国内においては主人公を行動させるタイプの本来のADVが激減し、ノベルタイプが主流になり、今日ではほとんどがノベルになりました。だからノベルの一般的な説明をADVの説明として用いても、ほとんど違和感がなくなったわけですね。つまり国内のADVにおいては、その代表的な説明がプレイヤーが主人公を動かしつつ絵や音やストーリーを楽しむものから、プレイヤーがストーリーの流れを追うものに変化したわけです。
で、今回はそのプレイヤー意識の変化が生じ始めた原点を振り返ってみようかなという趣旨だったのですが、結局はノベルゲームの生まれてくる歴史を振り返るって感じの内容になっています。

まずはノベル誕生の前の話ということで今回は簡単に済ませますが、80年代前半の最初期のADVは実はパラメーターとかもあっていろいろ複合的でややこしい側面もあった(つまり、パラメーターがあるから即SLGとはならないってことです)のですが、共通する基礎システムという面では「コマンド入力式」というタイプでした。つまり「みる」「ドア」という風に文字を打つと、「鍵がかかっています」というような感じで返答されるわけですね。これを繰り返してプレイヤーが主人公を移動させたり探索したりして、アイテムや情報を得ながら先に進ませるわけです。プレイヤーの主目的は次の場面に進むための適切な言葉を探し出すことであり、言わばADVとは言葉探しの暗号解読みたいなゲームだったわけです。もちろん細かい部分で各メーカーが違いを出していて当然システムも微妙に異なってくるのですが、最大公約数的な共通部分が「コマンド入力式」だったということです。
そして当初は画面全体に文字があるだけでしたが、次第にグラフィックも表示されるようになりました。その両者を区別する観点から前者を「テキストアドベンチャー」と言い、後者を「グラフィックアドベンチャー」と言うのですが、どちらもコマンドを入力するというプレイヤーの行動面に関しては一緒と言えたわけです。
しかし84年になり『オホーツクに消ゆ』(84年)が登場し、そこで「コマンド選択式」という概念が生まれました。時々『ポートピア連続殺人事件』とどっちが先か混乱する場合もみかけますが、ポートピアのPC版は83年でオホーツクより先ではあるものの、PC版はコマンド入力式でした。移植されたファミコン版はコマンド選択式になっていますが、ファミコン版は85年なので、PC版のオホーツクの方が先になるのです。それとちょっと誤解を招きかねないので少し補足しておきますが、字義通りにあらかじめコマンドが画面に表示されていてその中から選択するという点を強調しますと、オホーツク以前にもありました。『ミコとアケミのジャングルアドベンチャー』(84年)なんかもコマンドが全部表示されていて、それを見て入力していくので、表示された中から選択して入力するのだから選択式と言えなくもないですからね。そういう例は既にあったので、確か堀井さん自身は自分の作品が選択式の最初ではないと言っていたはずです。でも「みる」「はなす」などの使用頻度の高いコマンドを「標準メニュー」として整理しその後に続くいわゆるコマンド選択式ADVの形が出来上がった、正解探しとしてのADVから物語を楽しむ方向性への変化をもたらしたという意味で、多くの人がオホーツクを選択式の元祖といったような表現しているわけです。

何にせよこのコマンド選択式の登場により画面に表示されたコマンドを選んでいけば誰でもクリアできるようになり、物語を最後まで楽しんでもらいやすくなった反面、難易度やゲーム性の面で各ADV間に違いを示すことが難しくなりました。そしてこのことはADVに、大きく分けると2つの方向性を生みました。
1つは部分的に入力させたり画面をクリックさせたり時間の概念を導入してみたりミニゲームを混ぜてみたりと、何かしらの従来のコマンド入力の代わりとなる要素を組み込むことで、ゲーム性を補っていこうという流れですね。もっともこの流れは今回の趣旨とはずれるので、ここではスルーします。
もう1つは、ゲーム性で差を付けにくいのならば、絵や音といった演出面を強化させることで違いを示していこうとする流れです(演出重視という見方は私の捉え方もかかわってきてしまうのですが、ストーリー重視ならもっとテキスト量を増やそうという流れになるでしょう。しかしそういう流れではなく部分アニメーション、今風に言えば立ち絵や背景を細かく動かしたり、音楽にこだわるといった作品の方が多く感じられたことからストーリー重視ではなく演出重視という表現を用いました)。もちろんそれ以前のADVの歴史も半ばグラフィックの進化の歴史でありグラフィックを重視していたのですが、より一層見せることに重点を置いたゲームに比重を持っていこうというわけです。その代表例が『ジーザス』(87年)であり、この路線は翌年以降も『スナッチャー』(88年)や『サイオブレード』(88年)『アンジェラス』(88年)などに引き継がれていくことになります。

演出重視ということは絵や音に力を入れていくことになるわけですが、せっかく良い絵でも魅力的な場面でなければあまり印象に残りません。当然ストーリーも大事になってきます。それどころかストーリーは絵や音とは異なり、プログラム技術がなくても簡単に違いを示すことができるわけですから、もっとシンプルにストーリーそのものを強化していこうという流れが出てくるのも、当然と言えば当然なのでしょう。もちろんストーリー性の強化はゲーム性と矛盾するわけではないので、高い難易度を維持しつつストーリー性を強化しようという路線だってありえます。その代表例が『殺人倶楽部』(86年)から始まる、リバーヒルソフトのJ.B.ハロルドシリーズなどになるのでしょう。もっとも全てがストーリーとゲーム性の両立を目指していたわけではありません。両立させようとしてもどうせ選択式ではやれることに限りがあるのだから、だったら中途半端にゲーム性を加えようとしないで、端的にストーリーで勝負しようって路線も出てきます。こうしてこれからの時代はストーリーを読ませることが主になると、小説を読むようにストーリーを追わせることを主目的として作り出されたのが、88年から始まったシステムサコムのノベルウェアシリーズでした。
とは言うものの、このノベルウェア自体も最初から形が決まっていたわけではなく、システム的には少しずつ変化しています。ノベルウェア最初の作品は『DOME』(88年)でしたが、これはテキスト量を増やし読ませる比重を大幅に高めつつ、その代わりにコマンド選択の頻度を大幅に減らすという構造でした。だから読むことが主とは言いつつも、頻度が少ないだけで「みる」「きく」というような標準メニューは存在していたんです。2作目の『シャティ』(88年)もそうでしたね。遊ぶゲームから読むゲームへの主目的の変化ということで理念的には従来のADVと異なるノベルの誕生と言えるのでしょうが、まだシステム面が十分に対応していなかったのです。読ませる割合が高くなったとは言え、「みる」「移動する」とかって選んでいったのでは基本的な構造面では選択式とさほど変わりませんし、まだプレイヤーが主人公を動かしているんだって意識は残るでしょう。つまりこの頃のノベルウェアは、コマンド選択式と現在のノベルの境界上にある作品とも言えたのです。

プレイヤーが行動させるのではなく主人公の物語を読んで追いかけるんだという視点や意識に変化するには、標準メニューではなくその場その場に応じた長めの文章による選択肢の存在が必要とも言えるでしょう。ここはちょっと論理の飛躍というか何段階か飛ばしているので、選択肢により行動を伴わない感情の表現がしやすくなったとか、文章のつながりが生じて読む方に意識がいきやすくなったとか、本来は様々な要因を挙げるべきなのでしょうが、じっくり説明しだすと案外面倒そうでいながら、あまり説明の必要性も感じない部分でもありまして。つまり今のノベルゲームみたいな選択肢のことですから、これはノベルゲームを1本でも直接やればすぐに分かるでしょう。今のノベルゲームをやっていて読んでるという意識にならない人はいないでしょうからね。
従って選択肢の登場がストーリーの流れを追う作品の繁栄に大きな貢献をしたと考えられるわけですが、前述のノベルウェアでは同じ88年の3作目である『ソフトでハードな物語』で標準メニューではない、その場に応じた選択肢が登場するようになりました。
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ただ、明確にストーリーを追わせようという意図があったかはともかく、標準メニューではないその場に応じた選択肢の登場という点に関しては、それ以前にもありました。86年の『シンデレラペルデュー』以降の全流通の作品の多く(例えば「艶談シリーズ」や『おちゃめなゆうれい』『イーヴルストーン』『禁断のパラダイス』など)には標準メニューは存在せず、2択から4択の選択肢の中から選ぶ形式になっています。
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これは決して1ブランドのみの突然変異的なものではなく、ドット企画の『わが青春の妖怪屋敷』(88年)やテクトハウスの『ドッキン美奈子先生』(88年)なんかでも選択肢から選ぶ形式になっています。
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そして選択肢を選ぶことによりダイレクトに次の展開に進み、プレイヤーのコマンドとそれに対する返答の繰り返しという従来のADVの構図は崩れているわけですから、システム的な観点からはこの辺りのゲームが最初のノベルゲームと言えるのでしょう。忘れてきている面もあるので他にも類似の作品はあるかと思いますが、いずれにしろファミコンでコマンド選択式全盛時代には、PCでは標準メニューではない個別の選択肢を用いたゲームが普通に存在していたということです。もっとも一般PCゲームはゲームであることにこだわろうとしたところも多く、コマンド選択などの従来の枠組の中から何とかゲーム性を引き出そうとしているところが多かったですから、余計な部分をそぎ落として純粋に読ませようって観点ではマイナーなアダルト系作品の方が先行しやすかったのかもしれませんね。何れにしろ、ゲームというより読み物という意識はここで生まれたわけです。

今回のテーマであるノベルゲームの成り立ちや意識の変化という側面からは少しずれるのですが、選択肢によりダイレクトに次の展開が変わりマルチストーリーやマルチエンドになりうる、そしてクリア後も何度も再プレイさせようというのも、ノベルゲームの大きな特徴と言えるでしょう。
なので若干補足しておきますが、選択肢と言っても従来の標準メニューが少し長めで具体的な言葉に置き換わっただけという場合もあります。例えばENIXの『バーニングポイント』(89年)などがそうですね。置き換わっただけと言っても、それによってより自然に物語に入っていけるわけですから、ゲームとしては標準メニューよりずっと楽しめたのですが、一本道だしプレイヤーが行動させる従来型のADVとしての構造に違いはありません。
もっとダイレクトに物語の内容が変化することを楽しむという点では、やっぱり全流通あたりの作品になるのでしょうか。あまり単純だと展開の幅も少なくなるので、展開が変わるのを楽しむゲームと言えるか微妙に感じるのは否定できないでしょう。例えば『シンデレラペルデュー』は構造的にはノベルゲームとしか言いようがないのですが、自動車で行くのか電車で行くのかといった単純な2択の繰り返しが多く、展開の変わる様子を楽しむゲームとは言い切れない面も否定できませんでした。もっとも艶談シリーズとか88年頃の作品になると結構難しくて、何度も再プレイしたんですけどね。例えば『ごらくいん』とかは豊臣についたり徳川についたり、大阪城を攻めようとしたら昔手を出した淀が秀頼を生んでて、実は父親はあなたなんですって言われて攻められなくなったりしてたわけで(逆に主人公が淀を孕ませていなければ秀頼は秀吉の子ということで、平気で大阪城攻めをすることができます)、もちろん他にもプレイヤーの関与次第で家光の乳母である春日局が福でなかったりするなどの例はありますが、いずれにしろ選択肢による展開の変化を楽しんだり再プレイする楽しみという意識は生じていたわけです。

ここまでで標準メニューから個別選択肢への変化や選択肢による展開の変化は分かってもらえたかと思いますし、これによってノベルゲーが誕生したと言って良いでしょう。
もっとも、個別の選択肢があってそこから展開に変化が生じるとしても、それだけではプレイヤーは読んでストーリーの流れを追うという意識には必ずしもならないと思います。
つまりプレイヤー≒主人公の図式が成り立ちうる限りは、主人公の物語を追うのではなく、自分も一緒に体験しているんだって気持ちになりがちですからね。

よってストーリーの流れを追うという意識に変わるためには、プレイヤーと主人公のつながりが分断されていなければならないとも言えるわけです。
この点に関しては突然何かが出てきたというよりも、少しずつ変化し作品の多様性が生まれる過程で表れていったというのが正しいのではないでしょうか。
というのも最初期のADVは主人公の分身でしたので、ゲーム内での主人公はあまり語ることをせず、無個性なキャラが多かったわけです。
感情や意思を表したいのなら、プレイヤーがコマンドで入力しろってことですね。
しかし物語性を増す過程で主人公に個性を持たせるものも出始めたし、原作付きのキャラ物なんかだとそのキャラの性格が優先されますから、「=」から「≒」へと少しずつ変化していったわけです。
それが更に進行し「≠」にまで変化するわけですが、最初の作品となるとCG集の進化の過程までたどらないと駄目なのかなとか思うわけで、ちょっと難しい面もあります。
ただよく見かけた例としては、男向けに作られたアダルトゲームの中の女性主人公作品では、完全に主人公とプレイヤーが分断されており、ストーリーの流れを追うという内容になっていたと言えるでしょう。例えば『セーラー服いけない体験告白集』(88年)は少女が体験談を語るという構造でしたし、有名どころでは『はっちゃけあやよさん』(89年)なんかもありますね。あやよさんは主人公とプレイヤーの分離、標準メニューではない選択肢による変化があるという両方を満たしている作品でもありました。面白いところでは『プリンセスはストリートガール』(89年)があるでしょうか。これは育成ADVで、育成SLGは91年頃からであることから、実は育成ADVの方が先なんですね。この場合プレイヤー≒主人公ではあるのですが、メインはヒロインを育てることであり、成長していくヒロインを眺めることに主目的があります。言わばヒロインの成長過程を追う物語であり、プレイヤーによる追体験とは一線を画するのです。

ついでに、一時期は全画面に文字が表示されるのがノベルで、画面下段のウインドウ内に3行ほど表示されるのがADVと言う見解もありましたが、行数の違いでゲームジャンルが異なるというのはあまりに論外な話だと思います。じゃあ画面の上段と下段両方にテキストが表示されるのは何?となりますし、吹き出し式であちこちに表示される場合なんかはわけがわからなくなります。ジャンル見た目ではなくあくまでもゲームの構造で判断すべきなのです。
因みに入力式でない全画面に文字が表示されるタイプのゲームとしては、PSKの『ザ・病院』(87年)やデータウエストの「Mistyシリーズ」(89~91年)があります(『ザ・病院』は下の画面のように基本はテキストオンリーでの進行で、たまにグラフィックが挿絵的に用いられていました)。
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かように全画面に文字が表示される必要はないとしても、ストーリーを読むのがメインという観点からは快適に文字が読めることも大事です。その点、PC-88用で400ラインに対応させた『ザ・病院』はそこまで意識していたのでしょう。

大体の条件が出揃ったのはそんなところでしょうか。システム面での構造的変化は86年頃から、読ませようという主目的の変化の面では88年頃から、その両方を満たすものにしても遅くとも89年には出始めていたというのが事実なのでしょう。
もちろん、出てきただけでは全てが変化するわけではありません。育成SLGが生まれて流行っても、戦略SLGや箱庭SLGが作られない理由にはならないですからね。だからSLGは様々なジャンルが今日も残っているわけですが、ADVは諸条件が重なって偏っていったわけです。例えばSFCでは映像面などで十分なADVを作れないことからサウンドノベルなどが作られていったわけですし、PCゲーもWINDOWSの登場により一時的に複雑なことができなくなり単純な構造のノベルに頼らざるをえなくなりました。後への影響度の大きさなんてのは後付の解釈と妄想の産物でしかないとも言えるわけで、凄い作品だからといって類似の作品が作られるわけではありません。簡単に真似できるわりに一杯売れるものほどビジネスが成立し普及しやすいのです。作りが単純になって労力がかからない物でも良いストーリーが読めれば十分というユーザーが増えたから、ノベルは普及しただけです。
このことはノベル内部での変遷でも表れています。ゲーム機では92年になってようやくシステム面でのノベルゲームが登場したわけですが、複雑な分岐で労力のかかる『弟切草』(92年)よりも次の『かまいたちの夜』(94年)の方が分岐はシンプルになっており、後続の作品もかまいたち系が多いです。PCゲームでもずっとノベルと呼べる構造のゲームは続いていたのですが、『奈緒美』(93年)や『河原崎家の一族』(93年)やアイデスのエロティックBAKAノベルあたりが登場する頃になり、分岐型ノベルゲームが本格的に流行っていきます。もっとも当初は数十個というEDの数を競いあうような展開の多様性に比重が置かれていました。それが次第にEDの数は少なくてもストーリーの良さを求めるように変化していき、やがて葉鍵の時代につながっていくわけですね。これは広く多様な展開でも個々の内容が浅いものでは次第にどれも似たような感じになってくることから、違いを示すために深く狭くに変わっていったとも言えるでしょう。しかし他方で、そもそも上記のようにノベルゲームはゲーム性よりもストーリー面に比重を移す中で生まれてきたジャンルであり、元々読んでストーリーを追うことに最も適した形式と言えます。それ故に、こうした分岐重視による多様な展開を楽しむタイプから幾つかの物語を読んでストーリーを追う形式に流行が変遷していくことは、なるべくしてなったということなのかもしれませんね。

最後に幾つか若干の補足をしていきます。これまではPCゲームを主に話を進めてきましたが、家庭用ゲーム機ではPCより少し遅れて後を追いかけていっています。昔はPCの普及率が低く、WIN95の登場により96・97年頃からPCゲームに手を出し始めた人も多かったです。だから90年代前半までをゲーム機で遊びつつ後半になってPCゲーに入り、その流れでノベルゲーもゲーム機からPCゲーへ拡大したと語る人も多いのですが、事実としては完全に反対なのです。
90年にハドソンがPCEで『うる星やつら STAY WITH YOU』を発売し、それにデジタルコミックと名付けました。デジタルコミックはPCEで流行って幾つも類似作が作られていくのですが、ハドソンは同じような形式のゲームを前年にも発売していて、それが『コブラ 黒竜王の伝説』だったんですね。それで今では、コブラが逆算的にデジコミの元祖と言われています。もっともデジコミと名前を付けたか否かの違いがあるだけで、その理念はゲーム性を極力少なくし、ストーリーを追うことに集中させようというものですし、ゲームシステム的にはたまに標準メニューを用いたコマンド選択が出てきますので、やっていることや考え方としては前述の『DOME』辺りと同じことになるのでしょう。そのためシステムや考え方の面では何も新しいものはありません。もっともPCEから発売されたデジタルコミックはCD-ROMという媒体を用いてアニメーションや音声をふんだんに使うことに成功しましたので、グラフィックや音声面という観点からのADVの進化の歴史には大きな意義を有しておりその側面からは外せない作品なんですけどね。同様に92年のサウンドノベルと題された『弟切草』も基本的なシステム面等は88年頃のPCゲーの後追いでしかなく特に見るべきところはありません。もっともこちらもサウンドを効果的に使用したということで、ADVにおける効果音という観点からは意義を有しているとは言えるでしょう。つまり絵や音といった違う側面からのADVの歴史を追う過程では必要になってくるのですが、今回扱っているゲームシステムやADVに対する考え方という面では完全に後追いでしかないのです。とは言うものの、当時のPC普及率がかなり低い上にRPGなどにブームが移ったこともあって、ノベルゲームの認知度はかなり低かったわけです。RPGにしたって『ブラックオニキス』(84年)や『ウィザードリィ日本語版』(85年)、『夢幻の心臓2』(85年)、『ファンタジアン』(85年)、『ファンタジー』(86年)と、初期の名作RPGが出ていてそれに熱中した人もいたのですが、ファミコンのドラクエで初めてRPGを知った人も多く、RPGの元祖はドラクエと言う人も多かったくらいですからね。そんな中にあって、デジコミやサウンドノベルというネーミングを使用し、SFCなどの国民機で発売することにより、ゲーム機でしかプレイしない層にも認識させることに成功したわけですから、売り方の上手さや認知度の上昇という側面では大きな役割を担っていたと言えるのでしょうね。
もう1つ補足としては、上記のように画面全体を文字で覆うか否かで判断することはナンセンスですし今はそういう人はほとんどいないと思うのですが、昔はそれなりにいたわけです。そういう観点でアダルトゲームを振り返るならば前述の『ザ・病院』(87年)が最初のアダルト系ノベルになるのでしょうし、全画面のグラフィックとの融合という観点からは『メッセンジャーフロムダークナイト』(95年)が続くということになるのだと思います。
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私は主人公を動かすタイプのADVの方が好きなので、冒頭で書いたようにノベルの変遷にはあまり関心がありませんでした。古い話で忘れて抜けている部分もあると思いますし、また加筆することもあるかもしれませんが、今のところはそんな感じですね。

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